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正月が過ぎ透析もエコー下穿刺で何とか上手くいっていた

何とかとゆうのは病院もエコー化穿刺に取り組み始めたばかりで初期の頃は俺の穿刺を出来る人が技師長位だった

俺の穿刺はエコーをつかっても難しいようだ 

俺がエコー下穿刺になった事でそれじゃまずいとゆう事で経験が長い技師から俺の穿刺をするようになった

他の人で練習する訳にいかないので言い方は悪いが練習台だ

もちろん失敗するときもある

刺し直しもしょっちゅうだ

それでも俺はあまり気にならなかった

そんな事よりシャントオペをしなくていい事と移送にならない事の方が俺にとっては大事だったからだ

そんな頃あの3.11が来た

金曜日で平日だったが月に2回金曜日は教育的処遇日といって作業が無かったのだ

代わりに更生した人の体験談などのラジオを聴いたり読書をしたりするのだ

透析が終わり刑務所に戻り食事してぼーっとしていると突然すごい揺れが来た

しかし居室から逃げられるはずも無く独居房の真ん中に座りじっとしていた

長い時間揺れていたが揺れが収まりしばらくするとヘルメットをかぶった刑務官が1部屋ずつ大丈夫かと声を掛けていった

今までにもこうゆう事があったがいつもならすぐに平常通りになるのだがこの日は違った

部屋の中で待機がかかったまましばらくすると今までではありえない事に突然ラジオがかかった

普通ラジオは決まった時間以外かからないので驚いた

それに点検や食事の時は必ず切るのに結局就寝の時間までつけっぱなしだった

しかしラジオを聞いてるうちに事の重大さがわかってきた

ラジオは地震の特別番組で被害情報が流れ時間がたつにつれ被害が大きくなってるのだ

それでも最初はピンと来ていなかったがやがて宮城のどこかの海岸に数十人の遺体が散乱しているとゆうのを聞いてただ事じゃないと分かってきた

被害が大きい場所が分かってくると驚きとともに知り合いの顔が浮かび心配になった

俺がいたパチンコ屋こそ福島の浜通りにチェーン店展開をしていたのだ

それこそ浪江町 南相馬市(当時の原町市) 宮城の山元町に店があり俺自身も相馬市と南相馬市に住んでいた事があるからだった

しかも皮肉な事に原発や火発で働く人を念頭に置いてこの地域にチェーン店展開していたのだ

本当に皮肉なものである

出所後聞いた話では保障の問題で東電と話合ってると言ってたがその後どうなったのか

そんな事であの震災はとても他人事とは思えなかった

連絡先も分からないが当時店長だった俺の下で働いていた子たちも何人もいる

みんな無事であってくれればいいけど

この地震では刑務所でも募金を集めた

もちろん出す出さないは自由だが

俺もわずかだが募金をした

これは全国の刑務所で集めたらしくのちにこの件が新聞記事に乗っていて俺がいた刑務所が全国の刑務所で1番募金が集まったと書いてあった